『ローゼンメイデン』のこと、あるいは薔薇乙女における自由と不自由の相克

Crunchyroll - Forum - Rozen Maiden Zurückspulen

ローゼンメイデン』のこと

 内向的で出不精で精神病の私の周囲には、アニメ好きとかアニメきちがいとかが多いけれども、私自身はあまりアニメとか漫画とかの類をみない。元来さほど好きではないし、大抵みるに値しないものと思っている。そんな私にも、数少ないながら好きなアニメというのがある。そのひとつが『ローゼンメイデン』だ。

 一口に『ローゼンメイデン』を語るのはまこと難しい。設定もいささか複雑であるし、アニメ化にあたっても改変があったり別の制作会社による別シリーズがあったりする。基本情報をまとめるだけでもいささか骨が折れるし、文字の説明で理解してもらえるかわからないが、簡単にまとめておく。既に御存知の方は適当に読み飛ばしていただいて結構だ。

 ごく簡単な概略としては、意思をもつ球体関節人形による闘いである。ローゼンなる名の人形師に製作された七体の伝説的人形「ローゼンメイデン」(作品名と重複しており紛らわしいので、以下「薔薇乙女」)は、「アリス」と呼ばれる究極かつ至高の少女を目指し繰り広げられる「アリスゲーム」を宿命づけられている、というのが基本的骨格だ。「アリス」に成りおおせるためには、薔薇乙女の活動に必要不可欠な心臓部である「ローザミスティカ」を七つ集めねばならない。ゆえにアリスを目指すにあたっては、薔薇乙女同士で心臓を奪い合い一人の勝者にならねばならないという寸法だ。

 原作の漫画はPEACH-PIT作である。『ローゼンメイデン』のほかには『しゅごキャラ!』などで知られていよう。はじめに、『Rozen Maiden』と題された漫画が幻冬舎コミックスの『月刊コミックバーズ』にて2002年から2007年にかけ連載される。この範囲の全43PHASE*1が、全三部のうちの第一部にあたる。

 続いて『ローゼンメイデン』と題が改められるとともに、集英社週刊ヤングジャンプ』に移籍して2008年から2014年にかけて月一回の頻度で連載される。これが第二部と第三部にあたるが、前半と後半では異なる世界を舞台としており明確な区切があるので、これにおいて分けられる。またここでは詳しく述べないが、その後『ローゼンメイデン0-ゼロ-』なる大正時代編もある。

 ごく簡単に筋書を述べると、導入として中学生の不登校児、桜田ジュンのもとに手紙が届く。その手紙には「まきますか まきませんか」と書かれていて、ジュンは「まきます」に丸をつける。すると翌日、鞄にはいったローゼンメイデン第五ドールである真紅という名の人形が、ジュンの手元に届く。そしてジュンと真紅は契約を結ぶ。(マスターと契約を結ぶことでローゼンメイデンは力を強めるのだ。)

 これに対し第二部は、ジュンが「まきません」に丸を付けた場合のパラレルワールドを舞台としている。そのまま成長して大学生になったジュンの元に、真紅のボディパーツが届いて物語が始まる。それで、第三部は巻いた世界のジュンが復学を果たしたところから始まる。

 アニメについては、はじめに第一期『ローゼンメイデン』が2004年秋に放送される。全12話。続いて第二期『ローゼンメイデン トロイメント』(トロイメントは「夢見るごとく」といった意味。音楽用語。)が、翌年秋に放送。全12話。それと外伝『ローゼンメイデン オーベルテューレ』(オーベルテューレは「序曲」の意。)がそのまた翌年に放送される。

 その後、期間が開いて、新版の『ローゼンメイデン』が、2013年夏に放送される。全13話。原作における第二部を元にしている。けれども、この2013年の新版は、旧版とは制作会社も監督も異なっていて、制作方針も異なっているので、連続性がないどころかほぼ別物と申して差支えない代物だ。

 主な違いとして誰もが挙げるところであろうが、原作準拠の新版に対し、旧版はアニメ独自の展開をする。先に述べたアリスゲームなどの基本的骨格は引き継がれているが、絵柄のみならず筋も一部設定も、原作とは異なっている。旧版は一般的アニメファンによる人気が高く、2000年初期の一時代を築いた作品のひとつにも数えられよう。これに比して新版はあまり話題にならなかった。唐突に並行世界を舞台とする第二部から始まり、旧版からかなり時期が開いていたため少なからずいたであろう新規視聴者は勿論の事、旧版のアニオリ設定は一様に改められたので従来のアニメ視聴者も理解に苦しんだのは想察に難くないところであろう。一応、第一部の概略も初めにダイジェスト形式で語られているが(原作連載六年分もの情報量をなんと一話で!)。かような次第で、新版は少なくとも商業的には、ありていに言ってコケたというのが一般的認識であろう。

 今日だと漫画原作のアニオリ展開は、原作ファンの顰蹙を買いかねない一種蛮勇とも捉えられよう。けれども旧版放送当時は、アニメ化に際して独創性を生みだすことが名作の条件として捉えるような風潮がいまよりも強かったとの印象がある。何も『ローゼンメイデン』に限った話ではあるまい。アニオリ展開で人気を博したにもかかわらず一新して新版では原作準拠となったのも、ひとつには、かような背景によるところであろうことは推察に難くない。

 この手の新旧論争は不毛であるし争いの火種にしかなり得ないので、日ごろ言及しないのだが、原作ファンである自分は新版のほうが好きだ。原作における、複雑かつ迅速な物語展開で、常に先の展開への関心を惹くとともに、あらゆる視座による読解を可能とする一種古典のような傑作性が見事再現されている。物語自体がさながらアラベスク模様のごとく複雑な様相を呈しているのだ。これを単純化した旧版は魅力を半減していると申してよい。また演出もすばらしい。文字に書き起こすのは難しいが、原作の雰囲気を踏襲しつつ、アニメゆえの映像美が表現されている。これに関しては、是非とも公式トレーラーを御覧じていただきたい。溢れ出る名作の感!

youtu.be

 旧版は旧版で、普通に好きなアニメではある。新版と比すると、幾分ドタバタ系日常回が多めなのだが、ドールが動いたりしゃべったりしているだけで、実に萌え~であるものだ。新版には無い魅力として、ひとつには舞台が概ね桜田邸に完結していることから、一種箱庭的楽園的な空気感があるところであろう。新版は並行世界とか劇団とか書店バイトとか、どちらかと申せば忙しない。他方旧版はシリアス展開だと物置部屋の姿見鏡から精神世界に転移するなどもするが、家の中の日常回が多く安寧の感がある。*2故に『ローゼンメイデン』の世界に憧憬の念をいだくとすれば、基本殺伐とした新版よりも旧版の世界に対してであることが多かろうと思われる。

 アニメ自体の主たる視聴者層はおよそ低能児であるので、原作の複雑かつ重層的な物語を単純化した旧版が評価され、そのままに再現した新版が見向きもされないのはむべなるかなと思う。一部の好事家にのみ好まれる、といった立ち位置であるのもまた良きものであろう。そして旧版のほうが好きというのも実に結構な事だ。けれども原作および新版を軽んずる人間は、『ローゼンメイデン』のファンを自称するのを差し控えてほしいというのもまた本心である。

 薔薇乙女における自由と不自由の相克

ローゼンメイデン』は、多様な主題が読み取られうるところであろう。たとえば一人の不登校児のビルドゥングスロマンとしても読めるし(ジュン関連の話は古傷が痛むので、ここではあまりしないが)、人間にとっての人形がいかなるものかとか、生まれながらに宿命を背負わされた薔薇乙女の宿命悲劇とかいった次第だ。故にここで述べるのも、あくまでそのうちの一面的な読み方であると断わっておく。

 人形というのは従来、意思を持たざるものの表象として扱われてきた。人形物語の起源を辿ると、はるか昔に遡る。挙げられるのは周知のとおり、主にオウィディウスの『変身物語』で語られるピュグマリオ―ン神話だ。ギプロス島の王ピュグマリオ―ンは、みずから理想の女性として彫像をつくって、やがてそれに恋するようになる。服を彫ったり食事を与えたり話しかけたりする。像に依存し衰弱するピュグマリオ―ンを見て哀れんだ美の女神アフロディーテは、彫像に生命を与えてこれとピュグマリオ―ンはめでたく結ばれることとなる、というのがその概略だ。

 この神話を基盤として、様々な物語が生み出されてきた。アンドロイドなる言葉が初めて使用された小説として知られる、リラダン作の『未来のイヴ』が好例であろう。美しい外見だが知性に欠けた女を恋人に持つエワルドに、エディソン博士が美と知性を具えた人造人間を創造するという筋書である。

 イプセンの戯曲『人形の家』は、フェミニズム文学の先駆として知られるところであるが、妻ノラが、夫との確執を通して自分が受けていた愛が、人としてでなく人形として扱われてのものであったと悟り、最終的に人間として独立することを目指す。またこれに関連しているショーの『ピグマリオン』は、音声学者ヒギンズが、神話にてピュグマリオ―ンが服を彫り入れるごとく、訛りの強い花売り娘イライザに上品なしゃべりを教え込み矯正するが、ヒギンズは幼稚な人物だ。これに腹を立てイライザは無事上品な喋りを身につけるもヒギンズと対立する。それでヒギンズはイライザの行動に翻弄されるという物語だ。平たく申せば、神話において徹頭徹尾彫像がピュグマリオ―ンの人形として主体性を持たない存在であることへの異議申立であろう。谷崎潤一郎の『痴人の愛』のようなところがあって、これら両作は人形ではなく人間として女の自立を描き出しているのが主題の一つだ。またピエール・ルイスの『女と人形』は、ファム・ファタール的な女の思うがままに翻弄される男を、操り人形として表現している。

 さして関係の無い前置きがいささか長くなった。繰り返しになるけれども、要するに人形というのは古来自立心を持たぬものの象徴であったのだ。今日日女は人形ならざる自立的存在とみなされるけれども、人形は自由意思があったとすればどうであろうか、というのが『ローゼンメイデン』の主題のひとつであろう。人形であるのにしゃべったり動いたり食事したりさえする。

 けれどもアリスゲームなる造物主ローゼンの呪縛に服しているという点で自立が果たされていない、生まれながらの宿命に翻弄されている、とすれば、歪なパラドクスに陥っていよう。通常の人形と異なり自由に動き回れる生命とか意思とかを与えられながらも自由であり得ないのである。そして皆が皆、かような宿命に盲従的であれば、もはや単なるバトルロイヤル物になっていようけれども、各々が宿命に対する葛藤に苛まれているうえで催されるのがアリスゲームである。自由という刑に処せられている的な状態だ。そう考えると、「アリスゲームは私達の宿命よ。意味なんて無くて当然だわ。人間が死ぬために生まれてくるようにね」とTALE21で水銀燈が言っているけれども、畢竟無意味なものに束縛されつづけるのは、何もドールに限った話じゃないのがわかる。

 ところで『ローゼンメイデン』はアニメ旧版にしろ新版にしろ、基本的に*3道徳律に即している。平和を乱す悪役が打倒される勧善懲悪譚だ。にも拘らず、悪行の報いを受ける悪役に対しどこか胸が痛む心地がするのは、彼女らが運命に翻弄された被害者であるにすぎないと同時に、人並の感情とか愛されたいなどの欲求とかがあるからにほかなるまいと思う。

 薔薇乙女アリスゲームなる宿命に囚われているが、アリスゲームにとられる姿勢はそれぞれだ。真紅は姉妹同士奪い合いをよしとしないし、水銀燈はアリスに最も執着しており手段を選ばない。他には、翠星石の場合アリスゲームには案外消極的であるし、金糸雀は割と好戦的である。雪華綺晶に関してはアリスになることでなく実体を求め苗代を欲する。アリスではなく自分のボディとなる実体を揃えることが至高の少女である条件であるとみなしているのである。

 かような次第で、本作に於ける基本的視点である真紅ら穏健派にとって水銀燈は厄介者であるし敵役の立ち位置だ。しかしある観点では、水銀燈はアリスへの意志が一際固く、真紅らは日和見主義の馴れ合いに甘んじているに過ぎないとも言えよう。

 一見高飛車で我の強い水銀燈であるが、かくて最もアリスゲームに縛られているという点で、最も自立心を確立できていないとも言える。何度か持ち出される「私たちは、絶望するために生まれてきた」という一節は、不毛かつ袋小路なアリスゲームに縛られている象徴的なところであろうと思う。

 けれども、アリスゲームに消極的であれ、結局は好戦派によって戦いに巻き込まれるので、結局どのドールも造物主の呪縛に服しているし翻弄されている。アリスゲームに無関心な雪華綺晶とて例外ではなく、ローゼンに実体を作られず精神体としての生命しか与えられなかったために、苗代に執着せねばならない宿命を背負わされていると言える。かような生まれ持っての束縛、絶望から脱却して自由の身となれるのかというのも結末を見届ける上でひとつの観点となろうと思われる。

TVアニメ「ローゼンメイデン」公式 no Twitter: "いつぞやアイコンに使っていたシリーズ1 水銀燈 #ローゼンメイデン http ...

*1:PHASEは『Rozen Maiden』における話数の単位である。『ローゼンメイデン』ではTALE。

*2:この論点で言えば旧版のストーリーは、およそ恐怖や不穏を基調とするゴシック・ロマンス的ではないかもしれません。

*3:原作の結末は......。