オスカー・ワイルドのこと

 オスカー・ワイルドは、自分が卒業論文で扱った作家だ。彼による長編小説『ドリアン・グレイの肖像』を、ユイスマンスの『さかしま』を中心に関連するフランス文学と絡めて論ずる、といった内容である。改めて出来を省みれば、反省点もあり稚拙な仕上りであるのだが、執筆において特別苦労はなかったし、自分のやりたいことができたので、この題目にして良かったと思う。大学院においても、この辺りのことを勉強したいと考えている。

 ワイルドは自家撞着的な人物であるので、勉強すればするほど、よくわからねえな、と思うことがある。例えばわかりやすいところだと、『幸福な王子』では燕が王子の彫像を飾る金箔を貧民に配る、という、ある種の博愛精神、利他的精神、道徳心といったものが見いだされるわけだが、他方『社会主義下における人間の魂』においては、徹底的な個人主義を表明し、かような慈善活動だとか、苦痛や貧困への同情、利他的精神だとかを痛烈に批判している。『幸福な王子』の話は一般的読者に知られていようと思われるが、大学で英文学を学んだ身としては、デカダンス、唯美主義なる一大思想運動の象徴的人物たる、後者のワイルド像がやはり馴染み深い。「芸術のための芸術」などといわれるが、芸術は俗物的な道徳や利益から独立し、ただその「美しさ」ゆえに評価されるべきというものだ。かくて、ワイルドは道徳主義に毒されたヴィクトリア朝における大衆に、挑発的態度を取っていたのである。

 かような一見矛盾する言行は、他にも沢山ある。「芸術を明らかにし芸術家を隠すのが芸術の目的である」とワイルド自身が語っているので、作家ごとに強固な一貫性を求めるのも、いかなるものかと思いもするのだが。

 近ごろ、ワイルドに関わる文章を読むと、ワイルドのダンディズム的な個人主義的態度というのは、偽悪的仕草にすぎず、その実『幸福の王子』に表されているような人道主義者であった、とする論調がよく見られる。生前から、反モラルなるレッテルを貼られ攻撃を浴びたワイルドであるが、この「モラル」というのは、当時ヴィクトリア朝に蔓延していた偽善的モラル──新興中流階級における自らの貴族性を誇示するための福音主義だとか慈善活動だとかのことであろうが──に対する反発であって、その実むしろ『幸福な王子』に表されているような真のモラルの信奉者であったという。とすれば、確かにこれらの態度は食い違っていないようにも思える。

 ゆえに『ドリアン・グレイ』だとか『サロメ』だとかで、道徳を放棄し、美ならびに快楽を追求した挙句に破滅を迎える、というのも、唯美主義に伴う危険の警鐘なり道徳の勝利なりとして読まれることも可能なところだ。自分には、「自己破滅の美」を表しているように思えるのだが、この辺りの解釈の多様性というのも、今なおワイルドの文学が語られる所以であろうか。