サド文学Tier表

 

サドのこと

 君の最も好きな作家は誰であるか、と訊ねられたとき、私は迷いなく、サド公爵と答えたいであろう。答えるのではなく答えたい、と申したのは、そのような宣言が許されるかは、その場の状況だとか、空気感だとかによるところであるからだ。場合によっては、というか多くの場合、変態だとか狂人だとか、ひいては犯罪者予備軍だとかの烙印を与えられかねない。サドを一冊も読んだことがない者でも、変態文学の筆頭的作家であり、精神病院とか牢獄とかにぶちこまれた狂人、という知識はもっているという人間も少なくないであろう。

 無論これはあながち誤りでないと言えど、片寄った一面的な見方であるのは一読すれば明らかにわかるのだが、とかく、サドは私が最も崇拝する作家である。

 サドの文学作品における傾向を一口で説明すると、性と暴力と哲学である。性行為だとか暴力行為だとかを、哲学的詭弁によって正当化するというのが、サド文学における定石だ。サドの哲学を特徴づけるのは、反道徳だとか反キリストだとか無神論だとか唯物論だとか自然法だとかいったものである。哲学と言えど、詭弁的、と申したように、高度な体系を伴っているのでなく、むしろ自家撞着的というべきものだ。

「ごく齢若い頃から自分の道徳原理に絶大な確信をいだいてきたので、わしはびくともせずに、この原理にのっとって行動し得るのだ。この原理によって、わしは美徳というものの空虚さ、頼りなさを知らされた。美徳は大嫌いだから、死ぬまで美徳の道に帰ることはあるまいな。悪徳こそ、人間にあの精神的肉体的な振動を感じさせるべき唯一のもの、いちばん甘美な逸楽の源泉であると、わしは納得しているよ。だからわしは悪徳に耽るのだ。早くから宗教というものの妄想を軽蔑し、創造主の存在なんぞは、子供さえ洟もひっかけない不愉快な馬鹿らしいお伽話だと、わしは信じてきたものだよ。だから創造主に気に入られるように、わしの性質を強制したりする必要は、一切これを認めないな。わしは自分の性質を自然から享けたので、もしこれに逆らうならば、自然を怒らせることにもなりかねまい。もし自然が悪い性質を与えたのだとすれば、自然の目的にとって悪い性質も必要なのだということだろう。自然の手のなかにあるわしは、自然が勝手気ままに動かす機械のようなものでしかなく、どんな罪悪を犯したところで、自然の役に立たないような罪悪は一つもないのだ。自然がわしに罪悪を勧めるのは、罪悪が必要だからにほかならず、もしこれに抵抗するなら、わしはとんだ馬鹿者になるだろう。だからわしの対抗する相手としては法律しかなく、しかもわしは法律を物ともしないのだ。わしの金と勢力は、こんな俗悪な邪魔者を難なく乗り越える。どだい法律なんてものは、人民を苦しめることしか出来はしないのだよ」(『ソドム百二十日』、澁澤龍彦訳)

 というような次第で、一人の登場人物による長たらしい哲学的台詞が続くのが特徴的だ。物珍しく、または冗長に感じられるかもしれない。サドの文学の多くは18世紀に書かれたもので、当時は散文がさほど栄えていなかった時代であるので、小説の王道的スタイルが確立されていなかったのである。

 一方的に苦痛だとか屈辱を与える行為に快感を覚えるのが「サディズム」、逆に、一方的に与えられることに快感を覚えるのが「マゾヒズム」であると、精神医学の領域においては呼びならわされる。「サディズム」は言うまでもなくサドが由来で、「マゾヒズム」のほうはオーストリアの作家ザッヘル・マゾッホが由来だ。『毛皮を着たヴィーナス』が代表作として挙げられる。かかるように性的倒錯の傾向を言い表す言葉であるが、ゆえにサドの文学は加虐の快楽を扱っていて、マゾッホの文学を被虐の快楽を扱うものと二項対立的に判ずるのは、いささか早計というものである。マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』は、いわゆるマゾヒズムのみを扱っているのに対し、サドは、サディズムマゾヒズムをはじめとし、ウラニズム、屍姦、獣姦、ウロフィリア、スカトロジア、エトセトラ、エトセトラ、といった次第で、ありとあらゆる性的倒錯を網羅しているといってよい。『ソドム百二十日』などは象徴的であろう。

 サドの作風は、悪く申せばワンパターンである。筋書は異なれど、扱われる主題は大抵の作品において似たようなものである。けれども、作風に一貫性があって、概ねハズレなしとも言える。したがって、自分はサドの文学はどれも愛好している。さような中で、自分の好きな順で、作品を序列づけたいと思う。

 

サド文学Tier表

Tier S

『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え

 少女ジュリエットが、美徳だとか宗教だとかを無意味なものであると聞かされ、快楽を追求する悪徳と繫栄の道を歩む様が、一人称視点により語られる小説である。『悪徳の栄え』の澁澤龍彦訳が猥褻文書とされ、罰金刑を科されたのも有名な話であろう。あまた登場する悪徳の信仰者らが語る哲学と多彩なエロティシズムが高度な形で発揮されている。

 

Tier A

『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』

 美徳の信奉者たるジュスティーヌが、悪徳に敗北し不幸に陥るといった悲劇的物語である。ジュスティーヌは、先の『悪徳の栄え』における主人公ジュリエットの妹であり、悪徳により栄える『悪徳の栄え』と、美徳により自滅する『美徳の不幸』は対を成す構造となっている。加筆修正が繰り返され、『美徳の不幸』、『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』、『新ジュスティーヌ』の三種の版がある。

 

『アリイヌとヴァルクウルあるいは哲学的物語』

 若い恋人同士のアリイヌとヴァリクウルの、ラクロを思わせる書簡体形式で綴られる悲劇的物語、というのが基本的な骨格である。が、途中にサンヴィルとクレオールによる空想冒険譚が挿入される。このうちサンヴィルのディストピア、食人国での体験をえがいたのが、澁澤龍彦による抄訳の『食人国旅行記』で、全四巻のうち第二巻にあたる。『アリイヌとヴァルクウル』は、非常に長大な物語なのだが、その奇想天外さと高度な哲学性ゆえに飽くことなく楽しめた作品である。一つの独立した物語として楽しめるので、はじめに『食人国旅行記』を手に取るのもよろしかろうと思う。

 

Tier B

『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』

 印刷されたのはサド没後の1904年であるが、これはサドがバスティーユ襲撃のどさくさに紛れて、原稿を紛失したためであり、執筆されたのは初期である。これ以前に『司祭と臨終の男との対話』等の小品は書かれていたが、一定の尺をもつ小説としては一作目にあたる。

 莫大な資産を有する放蕩者たる4人の男が、深い森の城館にて、フランス各地から拉致した美しい少年少女とともに120日間に及ぶ性的饗宴を催す物語である。物語が肉付けされ展開されるのは、序章と第一部のみで、それ以降は、設定の覚書のような段階にとどまっている。好きな作品ではあるのだが、いささかの消化不良感は否めない。

 

『閨房哲学』

 プラトンのごとく対話篇で綴られた、15歳の少女に対し無神論だとか近親相姦の正当性だとかを説いてサド風の思想を教え込む、といった教育物語風の作品である。サドを特徴づける強烈なエロティシズムだとかグロテスクだとかの要素は、この作品においては控えめで、それゆえにむしろ、サドの思想に関する側面が強調された作品である。エログロへの耐性が比較的弱い方には薦めやすいかもしれない。

 

Tier C

『司祭と臨終の男との対話』

 対話篇の小品である。サドにおける最初期の作品であり、短いながらサドの無神論的思想を把握できる一作である。

 

『小咄、昔噺、おどけ話』

 多くはイタリア風の明るい艶笑小咄風の物語から成る小品集。反対に暗い作風の短篇集『恋の罪』から排除された未発表原稿が、死後になって発見され出版されたという経緯があるが、簡潔な小咄だとか教訓だとかを作品ばかりでおもしろい。レズビアニズムを語る「恋の駈引」が御気に入りである。

「もし子孫繁殖が自然にとって一番大事なことであったりするならば、何故女はその人生の三分の一しかこれに奉仕することができないように作られているのでしょう、何故自然の子であるわたしたち人間の半数もが、その支配の手を脱して、自然の要求であるべきはずの子孫繁殖とは丸きり反対の趣味をもっていたりするのでしょう? むしろこういえばよいのだわ、自然は種の繁殖を許す、しかし決して要求はしないとね。」(『恋の駈引』、澁澤龍彦訳)

 

Tier D

『ガンジュ公爵夫人』

 悪徳神父の姦計に美徳の信奉者ガンジュ公爵夫人が立ち向かう物語である。実在の人物をモデルにして書かれているらしい。緊張感があって筋を追うのがおもしろい作品であるが、サドらしさは比較的稀薄であるように感じられた。

 

恋の罪、悲壮にして悲惨なる物語』

 先に挙げた『小咄、昔噺、おどけ話』とは対照的に、暗い物語を中心に集められた短編集だ。近親相姦や男色などの題材が扱われてはいるが、物語としてまとまりすぎている感があり、サドの作品はある種の冗長性だとか単調感だとかが特徴であるので、その筆法が前面に押し出されている、とは言い難い。

 

Tier E

ザクセン大公妃アデライド・ド・ブランスウィック、十一世紀の事件』

『フランス王妃イザベル・ド・バヴィエール秘史』

 この辺りの作品は歴史小説、歴史改変物であったと記憶している。フランス史に明るくない自分にはいまひとつ掴みどころがないように感じられたが、フランスの歴史に精通している御仁には面白く感じられるかもしれない。

 

 最後に翻訳は、澁澤龍彦訳がおすすめだ。サドを日本に紹介した人物として有名である。「千鳥」とか「鶏姦」とか「栽尾」とか「埒をあける」とか、辞書に載っていないような語彙だとか用法だとかが多用されているのが特徴的だ。おそらく当時における俗語だと思うが、それがサドの元々の文体における文法の崩壊というのを表しているともとれるだろう。澁澤龍彦訳のサド作品は、多くが抄訳だが、抄訳であっても問題なく楽しめるし、却って簡潔で読みやすいであろう。