『ローゼンメイデン』のこと、あるいは薔薇乙女における自由と不自由の相克

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ローゼンメイデン』のこと

 内向的で出不精で精神病の私の周囲には、アニメ好きとかアニメきちがいとかが多いけれども、私自身はあまりアニメとか漫画とかの類をみない。元来さほど好きではないし、大抵みるに値しないものと思っている。そんな私にも、数少ないながら好きなアニメというのがある。そのひとつが『ローゼンメイデン』だ。

 一口に『ローゼンメイデン』を語るのはまこと難しい。設定もいささか複雑であるし、アニメ化にあたっても改変があったり別の制作会社による別シリーズがあったりする。基本情報をまとめるだけでもいささか骨が折れるし、文字の説明で理解してもらえるかわからないが、簡単にまとめておく。既に御存知の方は適当に読み飛ばしていただいて結構だ。

 ごく簡単な概略としては、意思をもつ球体関節人形による闘いである。ローゼンなる名の人形師に製作された七体の伝説的人形「ローゼンメイデン」(作品名と重複しており紛らわしいので、以下「薔薇乙女」)は、「アリス」と呼ばれる究極かつ至高の少女を目指し繰り広げられる「アリスゲーム」を宿命づけられている、というのが基本的骨格だ。「アリス」に成りおおせるためには、薔薇乙女の活動に必要不可欠な心臓部である「ローザミスティカ」を七つ集めねばならない。ゆえにアリスを目指すにあたっては、薔薇乙女同士で心臓を奪い合い一人の勝者にならねばならないという寸法だ。

 原作の漫画はPEACH-PIT作である。『ローゼンメイデン』のほかには『しゅごキャラ!』などで知られていよう。はじめに、『Rozen Maiden』と題された漫画が幻冬舎コミックスの『月刊コミックバーズ』にて2002年から2007年にかけ連載される。この範囲の全43PHASE*1が、全三部のうちの第一部にあたる。

 続いて『ローゼンメイデン』と題が改められるとともに、集英社週刊ヤングジャンプ』に移籍して2008年から2014年にかけて月一回の頻度で連載される。これが第二部と第三部にあたるが、前半と後半では異なる世界を舞台としており明確な区切があるので、これにおいて分けられる。またここでは詳しく述べないが、その後『ローゼンメイデン0-ゼロ-』なる大正時代編もある。

 ごく簡単に筋書を述べると、導入として中学生の不登校児、桜田ジュンのもとに手紙が届く。その手紙には「まきますか まきませんか」と書かれていて、ジュンは「まきます」に丸をつける。すると翌日、鞄にはいったローゼンメイデン第五ドールである真紅という名の人形が、ジュンの手元に届く。そしてジュンと真紅は契約を結ぶ。(マスターと契約を結ぶことでローゼンメイデンは力を強めるのだ。)

 これに対し第二部は、ジュンが「まきません」に丸を付けた場合のパラレルワールドを舞台としている。そのまま成長して大学生になったジュンの元に、真紅のボディパーツが届いて物語が始まる。それで、第三部は巻いた世界のジュンが復学を果たしたところから始まる。

 アニメについては、はじめに第一期『ローゼンメイデン』が2004年秋に放送される。全12話。続いて第二期『ローゼンメイデン トロイメント』(トロイメントは「夢見るごとく」といった意味。音楽用語。)が、翌年秋に放送。全12話。それと外伝『ローゼンメイデン オーベルテューレ』(オーベルテューレは「序曲」の意。)がそのまた翌年に放送される。

 その後、期間が開いて、新版の『ローゼンメイデン』が、2013年夏に放送される。全13話。原作における第二部を元にしている。けれども、この2013年の新版は、旧版とは制作会社も監督も異なっていて、制作方針も異なっているので、連続性がないどころかほぼ別物と申して差支えない代物だ。

 主な違いとして誰もが挙げるところであろうが、原作準拠の新版に対し、旧版はアニメ独自の展開をする。先に述べたアリスゲームなどの基本的骨格は引き継がれているが、絵柄のみならず筋も一部設定も、原作とは異なっている。旧版は一般的アニメファンによる人気が高く、2000年初期の一時代を築いた作品のひとつにも数えられよう。これに比して新版はあまり話題にならなかった。唐突に並行世界を舞台とする第二部から始まり、旧版からかなり時期が開いていたため少なからずいたであろう新規視聴者は勿論の事、旧版のアニオリ設定は一様に改められたので従来のアニメ視聴者も理解に苦しんだのは想察に難くないところであろう。一応、第一部の概略も初めにダイジェスト形式で語られているが(原作連載六年分もの情報量をなんと一話で!)。かような次第で、新版は少なくとも商業的には、ありていに言ってコケたというのが一般的認識であろう。

 今日だと漫画原作のアニオリ展開は、原作ファンの顰蹙を買いかねない一種蛮勇とも捉えられよう。けれども旧版放送当時は、アニメ化に際して独創性を生みだすことが名作の条件として捉えるような風潮がいまよりも強かったとの印象がある。何も『ローゼンメイデン』に限った話ではあるまい。アニオリ展開で人気を博したにもかかわらず一新して新版では原作準拠となったのも、ひとつには、かような背景によるところであろうことは推察に難くない。

 この手の新旧論争は不毛であるし争いの火種にしかなり得ないので、日ごろ言及しないのだが、原作ファンである自分は新版のほうが好きだ。原作における、複雑かつ迅速な物語展開で、常に先の展開への関心を惹くとともに、あらゆる視座による読解を可能とする一種古典のような傑作性が見事再現されている。物語自体がさながらアラベスク模様のごとく複雑な様相を呈しているのだ。これを単純化した旧版は魅力を半減していると申してよい。また演出もすばらしい。文字に書き起こすのは難しいが、原作の雰囲気を踏襲しつつ、アニメゆえの映像美が表現されている。これに関しては、是非とも公式トレーラーを御覧じていただきたい。溢れ出る名作の感!

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 旧版は旧版で、普通に好きなアニメではある。新版と比すると、幾分ドタバタ系日常回が多めなのだが、ドールが動いたりしゃべったりしているだけで、実に萌え~であるものだ。新版には無い魅力として、ひとつには舞台が概ね桜田邸に完結していることから、一種箱庭的楽園的な空気感があるところであろう。新版は並行世界とか劇団とか書店バイトとか、どちらかと申せば忙しない。他方旧版はシリアス展開だと物置部屋の姿見鏡から精神世界に転移するなどもするが、家の中の日常回が多く安寧の感がある。*2故に『ローゼンメイデン』の世界に憧憬の念をいだくとすれば、基本殺伐とした新版よりも旧版の世界に対してであることが多かろうと思われる。

 アニメ自体の主たる視聴者層はおよそ低能児であるので、原作の複雑かつ重層的な物語を単純化した旧版が評価され、そのままに再現した新版が見向きもされないのはむべなるかなと思う。一部の好事家にのみ好まれる、といった立ち位置であるのもまた良きものであろう。そして旧版のほうが好きというのも実に結構な事だ。けれども原作および新版を軽んずる人間は、『ローゼンメイデン』のファンを自称するのを差し控えてほしいというのもまた本心である。

 薔薇乙女における自由と不自由の相克

ローゼンメイデン』は、多様な主題が読み取られうるところであろう。たとえば一人の不登校児のビルドゥングスロマンとしても読めるし(ジュン関連の話は古傷が痛むので、ここではあまりしないが)、人間にとっての人形がいかなるものかとか、生まれながらに宿命を背負わされた薔薇乙女の宿命悲劇とかいった次第だ。故にここで述べるのも、あくまでそのうちの一面的な読み方であると断わっておく。

 人形というのは従来、意思を持たざるものの表象として扱われてきた。人形物語の起源を辿ると、はるか昔に遡る。挙げられるのは周知のとおり、主にオウィディウスの『変身物語』で語られるピュグマリオ―ン神話だ。ギプロス島の王ピュグマリオ―ンは、みずから理想の女性として彫像をつくって、やがてそれに恋するようになる。服を彫ったり食事を与えたり話しかけたりする。像に依存し衰弱するピュグマリオ―ンを見て哀れんだ美の女神アフロディーテは、彫像に生命を与えてこれとピュグマリオ―ンはめでたく結ばれることとなる、というのがその概略だ。

 この神話を基盤として、様々な物語が生み出されてきた。アンドロイドなる言葉が初めて使用された小説として知られる、リラダン作の『未来のイヴ』が好例であろう。美しい外見だが知性に欠けた女を恋人に持つエワルドに、エディソン博士が美と知性を具えた人造人間を創造するという筋書である。

 イプセンの戯曲『人形の家』は、フェミニズム文学の先駆として知られるところであるが、妻ノラが、夫との確執を通して自分が受けていた愛が、人としてでなく人形として扱われてのものであったと悟り、最終的に人間として独立することを目指す。またこれに関連しているショーの『ピグマリオン』は、音声学者ヒギンズが、神話にてピュグマリオ―ンが服を彫り入れるごとく、訛りの強い花売り娘イライザに上品なしゃべりを教え込み矯正するが、ヒギンズは幼稚な人物だ。これに腹を立てイライザは無事上品な喋りを身につけるもヒギンズと対立する。それでヒギンズはイライザの行動に翻弄されるという物語だ。平たく申せば、神話において徹頭徹尾彫像がピュグマリオ―ンの人形として主体性を持たない存在であることへの異議申立であろう。谷崎潤一郎の『痴人の愛』のようなところがあって、これら両作は人形ではなく人間として女の自立を描き出しているのが主題の一つだ。またピエール・ルイスの『女と人形』は、ファム・ファタール的な女の思うがままに翻弄される男を、操り人形として表現している。

 さして関係の無い前置きがいささか長くなった。繰り返しになるけれども、要するに人形というのは古来自立心を持たぬものの象徴であったのだ。今日日女は人形ならざる自立的存在とみなされるけれども、人形は自由意思があったとすればどうであろうか、というのが『ローゼンメイデン』の主題のひとつであろう。人形であるのにしゃべったり動いたり食事したりさえする。

 けれどもアリスゲームなる造物主ローゼンの呪縛に服しているという点で自立が果たされていない、生まれながらの宿命に翻弄されている、とすれば、歪なパラドクスに陥っていよう。通常の人形と異なり自由に動き回れる生命とか意思とかを与えられながらも自由であり得ないのである。そして皆が皆、かような宿命に盲従的であれば、もはや単なるバトルロイヤル物になっていようけれども、各々が宿命に対する葛藤に苛まれているうえで催されるのがアリスゲームである。自由という刑に処せられている的な状態だ。そう考えると、「アリスゲームは私達の宿命よ。意味なんて無くて当然だわ。人間が死ぬために生まれてくるようにね」とTALE21で水銀燈が言っているけれども、畢竟無意味なものに束縛されつづけるのは、何もドールに限った話じゃないのがわかる。

 ところで『ローゼンメイデン』はアニメ旧版にしろ新版にしろ、基本的に*3道徳律に即している。平和を乱す悪役が打倒される勧善懲悪譚だ。にも拘らず、悪行の報いを受ける悪役に対しどこか胸が痛む心地がするのは、彼女らが運命に翻弄された被害者であるにすぎないと同時に、人並の感情とか愛されたいなどの欲求とかがあるからにほかなるまいと思う。

 薔薇乙女アリスゲームなる宿命に囚われているが、アリスゲームにとられる姿勢はそれぞれだ。真紅は姉妹同士奪い合いをよしとしないし、水銀燈はアリスに最も執着しており手段を選ばない。他には、翠星石の場合アリスゲームには案外消極的であるし、金糸雀は割と好戦的である。雪華綺晶に関してはアリスになることでなく実体を求め苗代を欲する。アリスではなく自分のボディとなる実体を揃えることが至高の少女である条件であるとみなしているのである。

 かような次第で、本作に於ける基本的視点である真紅ら穏健派にとって水銀燈は厄介者であるし敵役の立ち位置だ。しかしある観点では、水銀燈はアリスへの意志が一際固く、真紅らは日和見主義の馴れ合いに甘んじているに過ぎないとも言えよう。

 一見高飛車で我の強い水銀燈であるが、かくて最もアリスゲームに縛られているという点で、最も自立心を確立できていないとも言える。何度か持ち出される「私たちは、絶望するために生まれてきた」という一節は、不毛かつ袋小路なアリスゲームに縛られている象徴的なところであろうと思う。

 けれども、アリスゲームに消極的であれ、結局は好戦派によって戦いに巻き込まれるので、結局どのドールも造物主の呪縛に服しているし翻弄されている。アリスゲームに無関心な雪華綺晶とて例外ではなく、ローゼンに実体を作られず精神体としての生命しか与えられなかったために、苗代に執着せねばならない宿命を背負わされていると言える。かような生まれ持っての束縛、絶望から脱却して自由の身となれるのかというのも結末を見届ける上でひとつの観点となろうと思われる。

TVアニメ「ローゼンメイデン」公式 no Twitter: "いつぞやアイコンに使っていたシリーズ1 水銀燈 #ローゼンメイデン http ...

*1:PHASEは『Rozen Maiden』における話数の単位である。『ローゼンメイデン』ではTALE。

*2:この論点で言えば旧版のストーリーは、およそ恐怖や不穏を基調とするゴシック・ロマンス的ではないかもしれません。

*3:原作の結末は......。

『CARNIVAL』のこと

SWAN SONG』や『キラ☆キラ』、『MUSICUS!』などの成人向けAVG、あるいは最近の作品だと全年齢向けの『BLACK SHEEP TOWN』とか『ヒラヒラヒヒル』とかの脚本を手掛けた瀬戸口廉也については、ある程度この手のゲームに親しんだ人々には知られていよう。ここで改めて長々と説明するつもりもないので、御存知ない方はWikipediaでもご覧いただきたく思う。

 いまとなれば随分以前のことであるが、自分にはこの手のエロゲ―、ノベルゲーに熱を上げていた時代があった。最も好きな作品というと、『ランス10』(ALICESOFT)と、彼の処女作である『CARNIVAL』(S. M. L)だ。ちなみに他には、大体自分は脚本家で見ているのだが、すかぢ(『素晴らしき日々』、『サクラノ詩』......)とか朱門優(『天使の羽根を踏まないでっ』、『きっと、澄みわたる朝色よりも、』......)とか、範乃秋晴(『あの晴れわたる空より高く』、『景の海のアペイリア』......)とかの作品などが好きだ。平々凡々なチョイスであろうと思う。

 なお『ランス10』については、先立ってシリーズを通っている必要があるし、皆が不朽の名作として挙げるところであるから、あまりあらためて話す甲斐がない。というわけで、ここで『CARNIVAL』について述べる。

『CARNIVAL』の前提的筋書としては、次の如くである。本作の主人公である木村学は、不都合な記憶を忘れる気質の持主。それで知らず知らずのうちに、殺人容疑で逮捕される。彼を乗せたパトカーが交通事故に遭った隙に、警察から逃亡する。木村学は、幼馴染である九条理紗の邸宅に身を寄せつつ、学校で彼をいじめていた志村詠美への復讐を企てる、といった次第だ。

 上記のようにサスペンス要素もあり、幾分刺激的で、次第に謎が解き明かされてゆく展開も見物であるが、本作の真髄は、テクストの多くを、一人称視点による独白が占めている点であろうと思う。この筆法が実に比類なく、攻撃的でありながら共感を誘い、ときにはユーモラスでさえあり得る。主人公の魅力に引き寄せられるのだ。冒頭の文章には、いかなる読者も度肝を抜かれるであろう。

「月の表面に小さな蛆が無数に湧いて、その蛆が月面に笑顔を形作っている。」

「表面だけ笑みの形を作った、見下すような蔑むような腐敗した気持ちの悪い笑顔だね。笑顔って言っても、ちっとも朗らかでもなんでもない。ただ不快な笑顔。僕は、そうやって嗤う月を見ながら歩いていたんだ。」

「十四夜月だか満月だか十六夜月だかわからないけれど、とにかく丸い。こんないやな顔の月をじっと見ていると、気が狂いそうになる。僕が月を見ているのか、月が僕を見ているのか。見つめ合っているのかなあ。だとしたら、気色悪いったらない。」

それから本作は複数視点で、様々な思想や愛憎が渦巻いているのもおもしろい。生きることの難しさであるとか、幸福とは何であるかとか、高度な主題が弁証法的に論じられもする。次の台詞は、自分の死生観の根幹を成していると言っても過言ではない。

「わからない、わからないよ。僕も。それに僕はもう引き返せない。ただね、人間が生まれるのは誰の責任でもないんだと思う。生き物は新しい生き物を作るように出来てるんだ。それに関しては、親も子供も悪くない。良くもないけど。そういう問題じゃなくて、ただ、そうなってるだけだよ」

 ちなみに御存知の御仁もおられようけれども、本作には続編が小説として出されている。が、読んだところ自分には蛇足というか無粋に思われた。本編における暗示的結末を、改めて明確に書き起こした、というのが自分の所感である。翻って言えば、本編の結末に消化不良の感を覚えた人は満足できるかもしれない。

 パッケージ版は中古価格が高騰していて、なかなか入手しがたいかもしれないが、DL版は安く購入できる。おまけに、一般的なフルプライス作品の半分か三分の一程度のボリュームなので、早ければ一日で読み終えられよう。成人諸氏は、是非手に取ってほしい。

CARNIVAL S.M.L https://www.dlsite.com/pro/work/=/product_id/VJ001614.html

私の大学院入試

 自分は今年、大学院の2月入試を受験したのだが、先日、合否が発表された。晴れて合格であった。自分は現在、上智大学の文学部英文学科の4年生なのだが、受験した大学院は、大学も専攻も変わらず、上智大学院文学部英米文学専攻だ。

 院進を決断したのは、去年の11/28である。2月入試の締切前日だ。何故かくも遅くなったのかと言えば、文学は好きだが自分に研究は不向きかしらとか、仏文専攻のほうに進んだほうがよいのではなかろうかとか、そろそろ進路を考えねばなるまいなとか、無職でよいかとか、首吊自殺しようとか、入水自殺しようとか、様々考えていたら、気付けばこの時期だったというわけだ。志したきっかけとして、ある程度自由に、自分で主題を選択できる卒業論文の存在が大きかった。卒業論文で扱った周辺のことをさらに深めたいと考えた。

 決断時点で、入試本番まで既に残されているのは2ヶ月程度。卒業論文は概ね書き終えていたが、1月はアルバイトがいささか多忙であった。塾講師だったので、受験期にシフトが増え、8時間出勤とかになることもあった。

 統計を見るに、内部受験者もそれなりに落ちている。人生最大級に勉強し、短い期間であったが、最善は尽くした。勉強の方法は何度か変えて、試行錯誤を極めはしたが。一応分野別に、主に勉強したことを書いておく。他分野の大学院入試に関連することもあるかもしれないし、無いかもしれない。なおフランス語については過去の記事を参照されたい。

 大まかに、出題分野は文学史と外国語に分けられる。文学史について先に述べるが、文学研究に関わる基礎的な知識と、選択問題でもう一つ専門分野を選択するという形式となっている。自分は、ロマン主義の時代以降のイギリス文学を選択した。

 後者の選択問題について、やったこととしては、学部一、二年生が受講するような文学史の講義における参考書として、よく挙げられる『イギリス文学入門』(三修社)なる本に載っている、該当範囲の作家やその主要な作品に関する研究書をそれぞれ最低一冊、一通り読むというものだ。多分90人くらいだと思う。そして、各作家の作品について、いかなる研究がなされているかを一通り説明できるようにし、人前で説明する機会を設けるなどした。これにより、自分にとって縦の繋がりが大分明瞭になった。どれほど試験に繋がっているかはさておき、頗る糧になった。それと、更に多くの作品をカバーしておくべきであったとも悔いている。

 思えば、自分はみずから作品を読むことはあっても、研究書は期末などにレポートを書くときくらいしか読んでいないのであった。カスである。己を恥じた。

 それに加えて、入試の一週間前くらいになって過去問に目を通したところ、英語の文学用語に関する説明問題が頻出していた。なのでそれに合わせ、5日前くらいから『文学要語辞典 改訂増補版』(研究社)を始めた。もっと早く始めておくべきであったと思う。4周くらい読んだが、対策において大いに有効であった。やはり過去問は早めに目を通しておくべきだ。

 なお全員選択のほうは、詩の韻律規則と、ギリシャ神話や聖書といった西洋文学の基盤となる知識が問われる。これは出題される文献が指定されていて、先の事柄に関わる用語を百科事典的にまとめた英語の参考書がある。なのでそれを暗記すればよろしいという寸法だ。

 しかし、ギリシャ神話だとか聖書だとかの輪郭を知らずして、英語で用語とその定義のみ覚えるというのも、いささか無理がある。自分は、この手の暗記が大の苦手なので尚更だ。いくらかギリシャ神話や聖書に関する、日本語の入門書を繙いたのだが、結局、参考書に載っている範囲はカバーできず、また多少知っていても、英語でいかに表記するのか分からず、時間切れで爆死と相成った。

 なお詩の韻律規則においては、『英詩理解の基礎知識』(金星堂)が役立った。直喩や隠喩や奇想から対照法や撞着語法といった修辞法と、弱強五歩格とかシェイクスピアソネットというような形式をまとめたものだ。この辺りは一通り知識として覚えたのだが、実際に出力する機会が取れず仕舞いであった。scansionといって、実際に詩を見て韻律分析ができねばならないが、やはり覚束ないままであった。

 外国語は、第一外国語(英文和訳、和文英訳)と第二外国語(フランス語またはドイツ語)の二本立てとなっている。第二外国語はどちらも習得度としては同程度と思ったので、悩んだ末に自分はフランス語を選択したが、この対策に追われる次第となった。

 フランス語については過去に書いたので、英語について言えば、手元にあった『テーマ別英単語ACADEMIC 人文・社会科学編』(Z会)──多分『リンガメタリカ』(Z会)の大学生向けみたいな感じの本だが──を読んで、その後日本語訳を見ながら英訳する、という作業をやった。けれども結局、他分野の対策に追われ一週間足らずしかやっていない。[中級]を終えたあと[上級]に進むつもりだったが、[中級]も終わらなかった。ほぼ何もしていないも同然だ。けれども大学受験生のころ、この手の問題を得意としていたので、試験は比較的奮闘できた。

 面接に関しては直前の休み時間に、インターネットに載っていた、院試の面接で問われることというような項目に対し、解答を脳内で作っていた程度だ。自然体で挑んだ。結果、初歩的質問に答えられなかったので、落ち込みながら帰宅した。

 合否発表までは、不合格を確信してしばらく発狂し、やはり大学一、二年を成人向けゲームに空費し、三、四年は自殺のことを考えてしかいなかった僕には無謀であったのか、畜生、などと喚いたものである。落ちたら浪人するつもりであったが、実際に終えると燃え尽き気味であった。多少勉強もしていたが。

 結局合格したので良かった。配分は失敗したとも思うが、文学史における選択問題のほうと、フランス語については勉強が功を奏したと思う。誰かしらの参考になりでもすれば幸いだ。

オスカー・ワイルドのこと

 オスカー・ワイルドは、自分が卒業論文で扱った作家だ。彼による長編小説『ドリアン・グレイの肖像』を、ユイスマンスの『さかしま』を中心に関連するフランス文学と絡めて論ずる、といった内容である。改めて出来を省みれば、反省点もあり稚拙な仕上りであるのだが、執筆において特別苦労はなかったし、自分のやりたいことができたので、この題目にして良かったと思う。大学院においても、この辺りのことを勉強したいと考えている。

 ワイルドは自家撞着的な人物であるので、勉強すればするほど、よくわからねえな、と思うことがある。例えばわかりやすいところだと、『幸福な王子』では燕が王子の彫像を飾る金箔を貧民に配る、という、ある種の博愛精神、利他的精神、道徳心といったものが見いだされるわけだが、他方『社会主義下における人間の魂』においては、徹底的な個人主義を表明し、かような慈善活動だとか、苦痛や貧困への同情、利他的精神だとかを痛烈に批判している。『幸福な王子』の話は一般的読者に知られていようと思われるが、大学で英文学を学んだ身としては、デカダンス、唯美主義なる一大思想運動の象徴的人物たる、後者のワイルド像がやはり馴染み深い。「芸術のための芸術」などといわれるが、芸術は俗物的な道徳や利益から独立し、ただその「美しさ」ゆえに評価されるべきというものだ。かくて、ワイルドは道徳主義に毒されたヴィクトリア朝における大衆に、挑発的態度を取っていたのである。

 かような一見矛盾する言行は、他にも沢山ある。「芸術を明らかにし芸術家を隠すのが芸術の目的である」とワイルド自身が語っているので、作家ごとに強固な一貫性を求めるのも、いかなるものかと思いもするのだが。

 近ごろ、ワイルドに関わる文章を読むと、ワイルドのダンディズム的な個人主義的態度というのは、偽悪的仕草にすぎず、その実『幸福の王子』に表されているような人道主義者であった、とする論調がよく見られる。生前から、反モラルなるレッテルを貼られ攻撃を浴びたワイルドであるが、この「モラル」というのは、当時ヴィクトリア朝に蔓延していた偽善的モラル──新興中流階級における自らの貴族性を誇示するための福音主義だとか慈善活動だとかのことであろうが──に対する反発であって、その実むしろ『幸福な王子』に表されているような真のモラルの信奉者であったという。とすれば、確かにこれらの態度は食い違っていないようにも思える。

 ゆえに『ドリアン・グレイ』だとか『サロメ』だとかで、道徳を放棄し、美ならびに快楽を追求した挙句に破滅を迎える、というのも、唯美主義に伴う危険の警鐘なり道徳の勝利なりとして読まれることも可能なところだ。自分には、「自己破滅の美」を表しているように思えるのだが、この辺りの解釈の多様性というのも、今なおワイルドの文学が語られる所以であろうか。

ボードレール覚書

 自分はボードレールを、象徴派などの側面において扱うことが主なので、知識にいささか片寄りがあるように思われた。なので、ボードレールに関する研究書をいくつか繙いてみて、把握しておきたいと思ったことを書きとめておく。

 ボードレールは、1863年フィガロ」紙に発表した『現代生活の画家』と題した評論において、「モデルニテ」なる概念を提唱した。当時フランスにおけるロマン派の古典主義に対する反発として、「現代の美」なるものを訴えたのである。古代芸術を模倣するのではなく、現代生活に特有の美を発見しそれを芸術へと昇華せしめるべきという主張だ。ボードレールの言う「モデルニテ」というのは、特定の時代区分を示すのではなく、各人の置かれた時代、同時代性といった意味合いを含んでいる。よって古典の芸術家においても、その時特有の「現代性」が込められていると言えよう。

 ボードレールが文筆活動をおこなった時代は、フランス近代化の社会下にあって、我々から見た現代ではない。けれどもかような意味で、「モデルニテ」は「近代性」と訳すよりも、「現代性」と訳すのがむしろ妥当であろうと言われる。

 ボードレールは『現代生活の画家』における「現代性」の章にて次のように説明している。

「現代性とは、一時的なもの、うつろい易いもの、偶発的なもので、これが芸術の半分をなし、他の半分が、永遠なもの、不易なものである。昔の画家一人一人にとって、一個ずつの現代性があったのだ。......一時的で、うつろい易く、かくも頻々と変貌をとげるこの要素を、あなた方は軽蔑する権利もなければ、これなしですます権利もない。この要素を抹殺するならば、否応なしに、たとえば、人類最初の罪以前の唯一の女性の美といったたぐいの、抽象的で捉えどころのない美の、空虚のなかへと落ちこむのほかはない。」(『現代生活の画家』、阿部良雄訳)

かように「現代性」なる概念は、この『現代生活の画家』における「現代性」に対する言及について言えば、純粋に美学の範疇にとどまるものだ。しかし美学の領域で「現代性」を追求するにおいても、時代に特有の政治だとか道徳だとかはおのずと射程に入って来るし、またそうすると時代区分的な「近代性」というのも、おのずと浮上してくる。

 はじめにボードレールによる『悪の華』が出版されたさい、非難轟々であったとの事である。その主な理由は不健全性とか病的なところだとか、とされる。かような認識は攻撃した人々に限らず、ボードレールを擁護した人々においても同様であったらしい。

 死後にボードレールの全集が出版されたさい、テオフィル・ゴーティエが全集の内一冊の『悪の華』に『ボードレール論』として序文を付している。そこではボードレールが頽廃と人工の詩人として定義されている。これによりその後のボードレール像が方向づけらる。

「『悪の華』の詩人は、人が軽率にデカダンスの文体と呼んだものを好んだ。それは、老いゆく文明の傾く太陽の光線で明確に示唆される、最後の爛熟期に達した芸術に他ならない。それは、精緻、複雑、深遠な文体で、陰翳と洗練に富み、つねに言語の限界を押し広げ、あらゆる専門用語に語彙を借り、あらゆるパレットから絵具を選び、あらゆる鍵盤から音色を採り、何よりも筆舌に尽くしがたい至高の表現に努め、何よりも茫漠として捉えがたい輪郭の形を描写し、神経を病む者の微妙な打ち明け話、落ちぶれた老人の恋の告白、狂気に近い固定観念の異様な幻影などに、とくと耳を傾けてその真実を伝達する、そんな文体だ。つまりこのデカダンスの文体とは、万事を言い尽くす使命をおびて、極度の誇張に至った『言語表現』の究極の言葉である。」(テオフィル・ゴーティエボードレール』、井村実名子訳)

 その後自然主義作家たるエミール・ゾラは、ボードレールに対し反発的態度を示した。けれども、このゾラを筆頭とする自然主義の反動としてボードレールは礼賛されるようになる。自然主義からの脱却を宣言するユイスマンスに書かれた『さかしま』におけるボードレールに関する記述が象徴的だ。

「デ・ゼッサントは、ボオドレエルを読めば読むほど、ますますこの作家に対して言うに言われぬ魅力をおぼえるのであった。詩が人間と物との外観を描くためにしかもはや役立たなくなった時代にあって、彼は筋骨たくましい肉太の言葉を用いて、表現しがたいものを表現することに成功したのである。衰頽した精神と沈鬱な魂の、最も移ろいやすく最も顫え勝ちな病的状態を、ふしぎに健康な表現法をもって的確にとらえる驚くべき技倆が、この作家には、他のいかなる作家にも増して備わっていたのである。」(ユイスマンス『さかしま』、澁澤龍彦訳)

 世紀末象徴派においては、とりわけ『悪の華』における「照応」なる詩篇が重要視される。「共感覚」を主題にしたもので、色彩ならびに視覚と、その他の感覚の対応性だとか、さらには色彩により高次な意味だとかが見いだされる。

 20世紀はじめに、とりわけ第一次世界大戦を迎え社会や文明に混乱がもたらせると、頽廃的空気はもはや許容されないところとなり、ボードレール観も変容する。ここで、本来古典主義的であったヨーロッパ芸術において、「新たなる美」、「現代の美」を追い求める姿勢の立役者として評価されるようになる。

 

参考:

阿部良雄シャルル・ボードレール:現代性の成立』、河出書房新社、1995

阿部良雄ボードレール論の系譜」──『ボードレールの世界』、青土社、1976

横張誠ボードレール語録』、岩波現代文庫、2013(「語録」と題されていますが、ボードレールの格言集みたいな感じじゃなく、ボードレールのテクストを翻訳し、それに丁寧な解説が付されたものです。上の二冊と異なり小型の文庫本なので読みやすく、入門によろしいと思います。)

 

引用:

ボードレール全集IV』阿部良雄訳、筑摩書房、1987

J. K. ユイスマンス『さかしま』澁澤龍彦訳、河出文庫、2002

テオフィル・ゴーティエボードレール』井村実名子訳、国書刊行会、2011

 

人形を愛する或る男の独り言

 僕は人形を愛している。純粋に、人間よりも人形のほうがよほど美しいからだ。純粋に至高の美を探求するというような、審美的な価値観を抱いていれば、そうなるのが当然であろうと思う。

 人間の始まりについて、「糞便汚濁のなかより生まる」というように聖アウグスチヌスが説いているのは周知のとおり。人間とは本質的に、動物的で汚らわしいものであるのだよね。で、その不潔性の根源ってのは、自然の産物であることにある。自然から生れたものというのは、本性として欲求の下僕であって野蛮なものだ。野生動物同然にね。猥雑で体毛が茂っていて、かしましくて品性下劣で醜いのさ。

 他方、人形は清潔かつ神聖で高貴だ。人工の理性と計算に基づく精緻で洗練された外観を具えている。実に美しいものだね。いかなる自然なものも、人工において正確無比に再現されるどころか、もはや大概の幻想が人工の手により具現される時代になって久しい。既に自然が人工に如かないことは、異論の余地があるまいと思うね。

 今どきの女は、女らしさを失っている。男の領域に近づきつつあるのだよね。女らしさは気高さとも換言できる。そもそも女らしさってのは何かというと、ある種のウェヌス性ってのかな。より快楽や美的なものを求める傾向というべきものだ。この手の傾向は、悪徳だとか頽廃だとかの徴として、文明社会においては忌むべきものとして排除される。ゆえに女らしさの喪失ってのは、現代社会の宿命ではあるのだよね。

 この点、人形は女の上位互換と言えよう。女における絶対的条件であるところのウェヌス的な娼婦性と処女性を兼ね備えている。人形は、僕の与える愛の一切を受入れるし、そして尚且つ、僕以外の男の手が介在する余地がない。

 現代における女の有益性と言えば、種を保存する装置か、性的快楽を提供する道具か、男を良く見せる装飾品かくらいのものだね。僕にとって、こうした本能や虚栄心のためにおこなわれる行為は厭わしい。こうした作為を排してこその愛であろうと僕は思うね。

教養主義ならぬ「教育主義」に関する独り言

 近ごろ、に限った話なのかは知らないけど、僕の周囲で、学校の教科書に載っている事柄を、自分が一大知識人であるかのように、したり顔をして引用する人々を度々見かける。シューベルトの魔王だとか、ヘッセの少年の日の思い出の一節だとか、まあ、挙げればきりがないのだけど、その類のもの。で、伝わらなければ教育の敗北と嘲たりする。

 この手合を目にするたびに、顔面を殴打したくなるね。だいたい僕は、教育ってのが大嫌いだ。この上なく厭わしく思う。教育というのは、社会に有益な下僕を育成する工程なのだからね。それに教育にたずさわる教員は得てして、知性も品性も欠いた野蛮人であるので、彼らがもたらす最大の教訓はせいぜい、教育の腐敗、無益さ、自発的学習の尊さくらいじゃないか。そんな教育をありがたがっている低能児共も、同様に嫌悪の対象だ。彼ら低能児どもの、教育を重んじている、という行為そのものが、自発的に学ぶ意思をもたざる下僕であることを暴露してるだろう。それと優等生どもが一生懸命に気を払っている学業成績なんてのは、そいつが家畜として上等である指標を示す値札に過ぎないのだよね。原始的競争主義の奴隷根性に毒された全く唾棄すべき輩だよ。

 だいたい、脳髄に具わっている知的な引出がことごとく、教育だとか受身による産物であるというのは、それ以外にカルティベイトされる機会が自分にはまるでございませんでした、正真正銘の無教養者であります、って告白してるようなものじゃないか。恥ずべき事だろう。って訳で、かような教育主義的仕草ってのは、知的ぶった高慢さが鼻につく、ってだけじゃなく、教養どころか反対に無教養の標識でさえあり得るので、やはり関わり合いになりたくないね。