20世紀の傑作ポルノ文学『イギリス人』のこと

 先日、『閉ざされた城の中で語る英吉利人』(奢霸都館)が手元に届いた。幻想文学の大家として知られるフランスの作家たるアンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ作。1953年初版発表。原題はL'Anglais décrit dans le château fermé。元々澁澤龍彦訳の『城の中のイギリス人』を読んでいて、自分の好きな作品であり、生田耕作訳である奢霸都館も手元に置いておきたい、と思った次第である。筋書は、閉ざされた城の内で催されるSMや獣姦というような性的饗宴、といった次第で、サドの『ソドム百二十日』を想起させるものとなっている。

 奢霸都館の装丁はやはりすばらしい。加えて、こちらにはハンス・ベルメール作の挿絵がいくつか収められている。ハンス・ベルメールは、奇抜な球体関節人形を制作し、当時シュルレアリストに好まれた人物である。澁澤龍彦によって日本にも紹介されており、最も知名度のある人形作家のひとりであろうと思う。当初、この『イギリス人』に想を得て制作されたベルメールの挿絵を付した豪華版が、フランスにて出版される予定であったとの事だ。

 本書はピエール・モリオンなる筆名ではじめ秘密出版された。ゆえに生田耕作訳のほうでは、ピエール・モリオン作、と記されている。のちに1979年の新版の発表に際し、序文でマンディアルグの作であることが明かされる。この『イギリス人』でもマンディアルグ風の幾何学だとか幻想だとかが遺憾なく発揮されているので、これ以前からマンディアルグ作との説は推測されていた。澁澤龍彦訳の『城の中のイギリス人』には、新版に付された序文が収録されていて、マンディアルグの口から語られる執筆背景等々を知ることができる。生田耕作訳のほうも、後書にてその概要がまとめられているが。

 本書は、「この書物は闘牛の一種と思っていただきたい」との興味を惹く一節に始まり、「エロスは黒い神なのです」という含蓄ある言葉によって締め括られる。この黒い神に迫るかのごとく、城内では闘牛のごとく激しい性的実験行為が繰り広げられ、その光景が崇高などと形容されている。とりわけ印象ぶかいのは、ひとつには女を水槽に沈めて蛸に襲わせる場面だ。葛飾北斎の有名な春画を連想させる。

 第二に、若い女の前で、彼女が産んだばかりの一人息子が剃刀で切り刻まれる場面が印象ぶかい。女は無理矢理目を開かされ、この解剖行為の始終を見せられるのだが、この子供を破壊したあと女を襲うと、元々冷感症だったのに牝犬みたいによがり出したという。

 かかるように、エロティシズムというのが倒錯を極めた彼岸にあって、身の破滅をともなうものであるとするならば、「エロスは黒い神」であるとするのも、むべなるかなというところであろう。

『イギリス人』と題されているが、英国との関連も関心を惹くところである。扉には、「オーブリ・ビアズレー友の会(世に知られざる)」と書かれている。『サロメ』の挿絵で知られるであろう世紀末英国の象徴的人物だ。『イギリス人』は多くをビアズレーに負うているという。背徳的なものを美的にえがいていてある種の崇高性を感じさせるところは、確かにビアズレーの観がある。

 ほか「ブレイク流」とか「スウィンバーン流」とか、「ミルトンに淵源する魔王の美しさ」といったものを念頭に執筆されたことが序文に記されている。主人公モンキュは、A. C. スウィンバーンをモデルにしているとの事である。サドやボードレールの影響下にあり、獣姦だとかSMだとか背徳的なものを扱った詩人だ。そしてこの小説は、ラファエル前派の中心的人物ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの弟であるW. M. ロセッティの『スウィンバーン論』の一節が冒頭に付されている。「洗練された苦痛に対するあの性的誘惑は、わが子を取って食う雄兎の傾向と同じく、健康な肉体の男にとって自然な誘惑である」(澁澤龍彦訳)と。要はサディズムの普遍性といったところであろう。サディズムだとかマゾヒズムだとかは、一部の異常な人間に限られた性的嗜好でなく、人類に通底するものである。ゆえにエロスは、暴力や破滅を伴う黒い神であるのであろう。

「モンキュ語録」と称されるモンキュの台詞が続けざまに紹介される場面があるのだが、この辺りはスウィンバーンが特に意識されていよう。『国王牧歌』等で知られる桂冠詩人アルフレッド・テニスンヴィクトリア女王との情事の噂について話したり、イギリス式ティーポットをまさしく張形であると言ったり、英国の悪習として人種主義を語ったり、ほか逆説的警句を発したりしている。「女の尻を追いまわす漁色家を気どって、得意然とした男は世の中に掃いて捨てるほどいますがね、そもそも追いまわすことの窮極は殺すことだという真理が、彼らのちっぽけな頭蓋のなかには一向に入りこまないのですな。」(澁澤龍彦訳)だとか、「美女の美しさなんて、いやもうまったく、はかないものですよ。黒人の腕の先の......剃刀ひとつで事足りるんだから。」(澁澤龍彦訳)とかは、心に刻みたい名言だ。

 どちらの翻訳も一読したが、やはりどちらを読んでもよろしいと思う。澁澤龍彦はサドなど、生田耕作バタイユとかピエール・ルイスとか、それこそマンディアルグとかの翻訳で知られる、いずれも高名な仏文学者だ。大きな違いとしては先に述べたとおり、澁澤龍彦訳は、マンディアルグ本人による序文があり、生田耕作訳は、奢霸都館版であればハンス・ベルメールの挿絵付である。澁澤龍彦訳の『城の中のイギリス人』であれば、今でも白水社の愛蔵版が、大きな書店や通販ならば新品で購入できるはずだ。短くて読みやすいうえ凝縮されているのでおすすめの一作である。

 

自分のフランス語学習のこと

 近ごろ、語学書だとか単語帳の類をつかったフランス語の勉強に精を出していた。フランス語は元々、偶に基本的な単語を含めて辞書を引きながらユイスマンスとかボードレールとか自分の好きなフランス文学を読む、といった次第であった。これはこれで、フランス語に親しむ方法のひとつではあるのであろうが、勉強らしい勉強はしていなかった。

 はじめに着手したのは『はじめるフランス語―はじめての人から学びなおしの人まで』。よくあるフランス語の入門書である。二、三日で通読できたし基本的な文法項目は網羅していたので良い本だと思う。が、条件法だとか代名動詞だとかの理屈は把握できても、肝心の活用は一向に覚えられない。とはいえ運用しつつ自然と定着させればよろしかろう、と思い次に進む。また、会話や作文は出来ずとも読解さえ出来れば良かったので、名詞の性別は全く覚えなくてよいと気づいた。

『ゼロからスタートフランス語単語BASIC1400』をやった。最初の方の最頻出語句は解説も充実していて例文も豊富だったので、惚れこんで購入したのだが、後半は解説も例文もなくなっていた。結局、中途半端に覚えたままの状態で放棄。この本で得られた最大の教訓は、内容を一通りよく確認したうえで買ったほうがよい、というものである。何より、単語の大群が無味乾燥に羅列された紙と延々にらめっこするというのは性に合わない。苦行である。大学入試のころに単語帳を結局一冊たりとも覚えられなかったのが思い出される。

 その次に取り組んだ『中級者のためのフランス語語彙力アップ1500題』は、例文の豊富さと接頭辞だとか接尾辞だとかの観点から選択した。単語は入門と幾分乖離があったので、例文は辞書を片手にひたすら多読した。これによりある程度の力は着いたと思う。が、これもやはり途中で挫折した。理由として主に、例文が退屈だったのと、取り扱われる単語が自分の求めるような、文学だとか論文だとかで扱われる方面でなかったのがひとつ挙げられる。自分の覚えたい単語と方向性が合致しているか、というのも、一定以上の水準となると確認が必要である。

 最後に手を出したのが、『やさしい仏文解釈』(大学書林)だった。仏文和訳が出来るようになることを自分の目標としていたからである。この本はやがて自分にとってフランス語学習書の聖典となる。1ヶ月で4度ほど読み直した。まえがきによると、フランス語学習を開始して3ヶ月から6ヶ月の人間を読者として想定しているらしかったので、始めて1ヶ月の自分には恰好の本であるように思われた。というのも、自分は1ヶ月で他人の6ヶ月分に相当する勉強をしたという自負があったからである。

『やさしい仏文解釈』は薄い本で、文法項目のもと分類された5章38節から構成されており、各節にはフランス語の短文とその訳が一文と、大体1ページに収まるほどの文量であるフランス語の長文基本的にひとつとその訳文が含まれている。扱われる長文が、シラノ・ド・ベルシュラックだとかアンドレ・ジッドだとかジャン・ジャック・ルソーだとかいうような、名高い文学者によるものでおもしろい読物、というのも好ましかった。何より読んでいて全く苦ではない、むしろ楽しい。文法は難なく定着していたのだが単語はまったく頓珍漢であったので、語注が付されているにもかかわらず辞書を片手に読み進めた。決して自分にとって「易し」くはなかったが、大いに力となったのは疑いの余地が無い。活用は覚えていないなりに文脈などから推測していたので、活用表を参照する習慣がなく、ゆえに曖昧なままなのだが、翻って言えば推測できるのならそれで構わないかとも思った。

 思うに、自分にはいささか古典的な形式が性に合っているのであろう。文構造を解析したり文法に則り訳出したりといった読解は好きだ。また近ごろ出版されている、実用性重視で分かりやすさのみを追求した無味乾燥な書籍は肌に合わなかった。

 学習の順序としては、中級単語は不要で、「文法入門書→単語入門書→やさしい仏文解釈」でよかったと考える。しかし単語入門書を一通り覚えても、『やさしい仏文解釈』では見られない単語が頻発することが予想される。自分のように「単語帳を眺めるのが苦痛ゆえに文章を読むなかで自ずと覚える」流派の人間でないならば、入門と中級の間に位置する初級の単語帳を覚えた上で臨めばよいであろうと思う。

 この後は『新しい仏文解釈法』をやるつもりだ。『やさしい仏文解釈』の延長であると捉えていたが、短文が多く、ボリュームが増している。価格が高騰していたが、何とか手元に用意することができた。小説などなら、高価なものは図書館などから借りてどうしても欲しい場合のみ購入すればよいが、語学書であれば基本的に手元に置きたいのが難しいところだ。

 また最近ラテン語の勉強も始めた。ペトロニウス辺りのラテン文学にいささかの関心があるからだ。久々に、フランス語も含め、文法書の類を繙いて言語を学ぶ楽しさを実感している。この手の勉強を楽しんでいた中高時代の英語学習が懐かしく思われた。

 

サド文学Tier表

 

サドのこと

 君の最も好きな作家は誰であるか、と訊ねられたとき、私は迷いなく、サド公爵と答えたいであろう。答えるのではなく答えたい、と申したのは、そのような宣言が許されるかは、その場の状況だとか、空気感だとかによるところであるからだ。場合によっては、というか多くの場合、変態だとか狂人だとか、ひいては犯罪者予備軍だとかの烙印を与えられかねない。サドを一冊も読んだことがない者でも、変態文学の筆頭的作家であり、精神病院とか牢獄とかにぶちこまれた狂人、という知識はもっているという人間も少なくないであろう。

 無論これはあながち誤りでないと言えど、片寄った一面的な見方であるのは一読すれば明らかにわかるのだが、とかく、サドは私が最も崇拝する作家である。

 サドの文学作品における傾向を一口で説明すると、性と暴力と哲学である。性行為だとか暴力行為だとかを、哲学的詭弁によって正当化するというのが、サド文学における定石だ。サドの哲学を特徴づけるのは、反道徳だとか反キリストだとか無神論だとか唯物論だとか自然法だとかいったものである。哲学と言えど、詭弁的、と申したように、高度な体系を伴っているのでなく、むしろ自家撞着的というべきものだ。

「ごく齢若い頃から自分の道徳原理に絶大な確信をいだいてきたので、わしはびくともせずに、この原理にのっとって行動し得るのだ。この原理によって、わしは美徳というものの空虚さ、頼りなさを知らされた。美徳は大嫌いだから、死ぬまで美徳の道に帰ることはあるまいな。悪徳こそ、人間にあの精神的肉体的な振動を感じさせるべき唯一のもの、いちばん甘美な逸楽の源泉であると、わしは納得しているよ。だからわしは悪徳に耽るのだ。早くから宗教というものの妄想を軽蔑し、創造主の存在なんぞは、子供さえ洟もひっかけない不愉快な馬鹿らしいお伽話だと、わしは信じてきたものだよ。だから創造主に気に入られるように、わしの性質を強制したりする必要は、一切これを認めないな。わしは自分の性質を自然から享けたので、もしこれに逆らうならば、自然を怒らせることにもなりかねまい。もし自然が悪い性質を与えたのだとすれば、自然の目的にとって悪い性質も必要なのだということだろう。自然の手のなかにあるわしは、自然が勝手気ままに動かす機械のようなものでしかなく、どんな罪悪を犯したところで、自然の役に立たないような罪悪は一つもないのだ。自然がわしに罪悪を勧めるのは、罪悪が必要だからにほかならず、もしこれに抵抗するなら、わしはとんだ馬鹿者になるだろう。だからわしの対抗する相手としては法律しかなく、しかもわしは法律を物ともしないのだ。わしの金と勢力は、こんな俗悪な邪魔者を難なく乗り越える。どだい法律なんてものは、人民を苦しめることしか出来はしないのだよ」(『ソドム百二十日』、澁澤龍彦訳)

 というような次第で、一人の登場人物による長たらしい哲学的台詞が続くのが特徴的だ。物珍しく、または冗長に感じられるかもしれない。サドの文学の多くは18世紀に書かれたもので、当時は散文がさほど栄えていなかった時代であるので、小説の王道的スタイルが確立されていなかったのである。

 一方的に苦痛だとか屈辱を与える行為に快感を覚えるのが「サディズム」、逆に、一方的に与えられることに快感を覚えるのが「マゾヒズム」であると、精神医学の領域においては呼びならわされる。「サディズム」は言うまでもなくサドが由来で、「マゾヒズム」のほうはオーストリアの作家ザッヘル・マゾッホが由来だ。『毛皮を着たヴィーナス』が代表作として挙げられる。かかるように性的倒錯の傾向を言い表す言葉であるが、ゆえにサドの文学は加虐の快楽を扱っていて、マゾッホの文学を被虐の快楽を扱うものと二項対立的に判ずるのは、いささか早計というものである。マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』は、いわゆるマゾヒズムのみを扱っているのに対し、サドは、サディズムマゾヒズムをはじめとし、ウラニズム、屍姦、獣姦、ウロフィリア、スカトロジア、エトセトラ、エトセトラ、といった次第で、ありとあらゆる性的倒錯を網羅しているといってよい。『ソドム百二十日』などは象徴的であろう。

 サドの作風は、悪く申せばワンパターンである。筋書は異なれど、扱われる主題は大抵の作品において似たようなものである。けれども、作風に一貫性があって、概ねハズレなしとも言える。したがって、自分はサドの文学はどれも愛好している。さような中で、自分の好きな順で、作品を序列づけたいと思う。

 

サド文学Tier表

Tier S

『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え

 少女ジュリエットが、美徳だとか宗教だとかを無意味なものであると聞かされ、快楽を追求する悪徳と繫栄の道を歩む様が、一人称視点により語られる小説である。『悪徳の栄え』の澁澤龍彦訳が猥褻文書とされ、罰金刑を科されたのも有名な話であろう。あまた登場する悪徳の信仰者らが語る哲学と多彩なエロティシズムが高度な形で発揮されている。

 

Tier A

『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』

 美徳の信奉者たるジュスティーヌが、悪徳に敗北し不幸に陥るといった悲劇的物語である。ジュスティーヌは、先の『悪徳の栄え』における主人公ジュリエットの妹であり、悪徳により栄える『悪徳の栄え』と、美徳により自滅する『美徳の不幸』は対を成す構造となっている。加筆修正が繰り返され、『美徳の不幸』、『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』、『新ジュスティーヌ』の三種の版がある。

 

『アリイヌとヴァルクウルあるいは哲学的物語』

 若い恋人同士のアリイヌとヴァリクウルの、ラクロを思わせる書簡体形式で綴られる悲劇的物語、というのが基本的な骨格である。が、途中にサンヴィルとクレオールによる空想冒険譚が挿入される。このうちサンヴィルのディストピア、食人国での体験をえがいたのが、澁澤龍彦による抄訳の『食人国旅行記』で、全四巻のうち第二巻にあたる。『アリイヌとヴァルクウル』は、非常に長大な物語なのだが、その奇想天外さと高度な哲学性ゆえに飽くことなく楽しめた作品である。一つの独立した物語として楽しめるので、はじめに『食人国旅行記』を手に取るのもよろしかろうと思う。

 

Tier B

『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』

 印刷されたのはサド没後の1904年であるが、これはサドがバスティーユ襲撃のどさくさに紛れて、原稿を紛失したためであり、執筆されたのは初期である。これ以前に『司祭と臨終の男との対話』等の小品は書かれていたが、一定の尺をもつ小説としては一作目にあたる。

 莫大な資産を有する放蕩者たる4人の男が、深い森の城館にて、フランス各地から拉致した美しい少年少女とともに120日間に及ぶ性的饗宴を催す物語である。物語が肉付けされ展開されるのは、序章と第一部のみで、それ以降は、設定の覚書のような段階にとどまっている。好きな作品ではあるのだが、いささかの消化不良感は否めない。

 

『閨房哲学』

 プラトンのごとく対話篇で綴られた、15歳の少女に対し無神論だとか近親相姦の正当性だとかを説いてサド風の思想を教え込む、といった教育物語風の作品である。サドを特徴づける強烈なエロティシズムだとかグロテスクだとかの要素は、この作品においては控えめで、それゆえにむしろ、サドの思想に関する側面が強調された作品である。エログロへの耐性が比較的弱い方には薦めやすいかもしれない。

 

Tier C

『司祭と臨終の男との対話』

 対話篇の小品である。サドにおける最初期の作品であり、短いながらサドの無神論的思想を把握できる一作である。

 

『小咄、昔噺、おどけ話』

 多くはイタリア風の明るい艶笑小咄風の物語から成る小品集。反対に暗い作風の短篇集『恋の罪』から排除された未発表原稿が、死後になって発見され出版されたという経緯があるが、簡潔な小咄だとか教訓だとかを作品ばかりでおもしろい。レズビアニズムを語る「恋の駈引」が御気に入りである。

「もし子孫繁殖が自然にとって一番大事なことであったりするならば、何故女はその人生の三分の一しかこれに奉仕することができないように作られているのでしょう、何故自然の子であるわたしたち人間の半数もが、その支配の手を脱して、自然の要求であるべきはずの子孫繁殖とは丸きり反対の趣味をもっていたりするのでしょう? むしろこういえばよいのだわ、自然は種の繁殖を許す、しかし決して要求はしないとね。」(『恋の駈引』、澁澤龍彦訳)

 

Tier D

『ガンジュ公爵夫人』

 悪徳神父の姦計に美徳の信奉者ガンジュ公爵夫人が立ち向かう物語である。実在の人物をモデルにして書かれているらしい。緊張感があって筋を追うのがおもしろい作品であるが、サドらしさは比較的稀薄であるように感じられた。

 

恋の罪、悲壮にして悲惨なる物語』

 先に挙げた『小咄、昔噺、おどけ話』とは対照的に、暗い物語を中心に集められた短編集だ。近親相姦や男色などの題材が扱われてはいるが、物語としてまとまりすぎている感があり、サドの作品はある種の冗長性だとか単調感だとかが特徴であるので、その筆法が前面に押し出されている、とは言い難い。

 

Tier E

ザクセン大公妃アデライド・ド・ブランスウィック、十一世紀の事件』

『フランス王妃イザベル・ド・バヴィエール秘史』

 この辺りの作品は歴史小説、歴史改変物であったと記憶している。フランス史に明るくない自分にはいまひとつ掴みどころがないように感じられたが、フランスの歴史に精通している御仁には面白く感じられるかもしれない。

 

 最後に翻訳は、澁澤龍彦訳がおすすめだ。サドを日本に紹介した人物として有名である。「千鳥」とか「鶏姦」とか「栽尾」とか「埒をあける」とか、辞書に載っていないような語彙だとか用法だとかが多用されているのが特徴的だ。おそらく当時における俗語だと思うが、それがサドの元々の文体における文法の崩壊というのを表しているともとれるだろう。澁澤龍彦訳のサド作品は、多くが抄訳だが、抄訳であっても問題なく楽しめるし、却って簡潔で読みやすいであろう。

 

ロリコン小説『ペピの体験』のこと

 少女を扱った小説というと、思い当るものは何であろうか。ロリータ・コンプレックスの由来ともなった、ナボコフによる『ロリータ』、ヌードも含めた少女の写真撮影を趣味としていたルイス・キャロルの『アリス』シリーズ、日本文学だと、古くは紫式部作の『源氏物語』、あとは田山花袋の『少女病』だとか、川端康成の『眠れる森の美女』だとか、それから少女小説と呼びならわされる分類があって、吉屋信子だとか尾崎翠だとか森茉莉だとか倉橋由美子だとかがその象徴的作家として挙げられる、等々、等々。

 この辺りもおもしろいのだが、もっと詳しい御仁がおられようと思う。少女を扱った小説として、自分が好きなもののひとつに、『ペピの体験』なる作品がある。オーストリアのウィーンにて、1908年に出版された好色文学である。正式な題名は、『ヨゼフィーネ・ムッツェンバッヒェル―あるウィーンの娼婦の身の上話』 (Josefine Mutzenbacher oder Die Geschichte einer Wienerischen Dirne von ihr selbst erzählt.)。海外の官能小説の翻訳シリーズである富士見ロマン文庫から翻訳が出ていて、この手の作品群の中では比較的有名なほうだ。匿名出版なので実際のところは不明だが、様々な文人が作者として憶測されている。基本的情報は、Wikipediaなどにも割と詳しく書かれている。

 筋としては、やがて一大高級娼婦となるペピの、少女時代における性体験の回想録である。7歳からヨゼフィーネ・ムッツェンバッヒェルことペピが、兄フランツとともに友人の兄妹に誘われ「パパとママごっこ」なる乱痴気騒ぎに興ずる。友人兄妹が引っ越した後も、ペピの性的な快楽への欲求はとどまることなく、近所の中年男や兵士、さらには神父や実の父に誘われたり誘ったりして、身体を重ねることとなる。

 ポルノとしても上質であるが、ひとつ興味を惹くに値するのは、このころから幼児を性的な存在として見なすような態度がある程度浸透していたことである。ルイス・キャロルには女児の写真を撮影する趣味があったが、当時においては、児童のヌード写真というのは無垢性の象徴として捉えられるのが一般的であったし、性的興味のもと撮影されていたかは不明であるので、キャロルがぺドフィリアだったというのもやはりあくまでひとつの仮説にとどまっている。

 けれどもこの『ペピの体験』が発表されたのは1908年とされていて、オーストリアの心理学者であるジークムント・フロイトが『性理論に関する三つのエッセイ』(Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie)で「幼児性欲」なる概念を提唱した後のことであった。人々の児童観に大いなる影響が及ぼされた事であろう。人文学に対する影響も顕著で、モダニズムと称される文学運動とフロイトの理論は密接に関連している。かかる好色文学が生み出され尚且つ評価されたのも、かかる背景によるところであろうと推察いたす次第である。

いかなる者も自殺する権利をもつ

 いかなる者にも、己の苦痛を取り除き幸福を追求する自由が与えられるべきである。自分の人生が生きるに値しないならば、その嘆かわしい徒刑から釈放される権利があってしかるべきである。

 人生の決定権は、当人ただひとりが握っているべきである。それについて、外野が口出しをするべきではない。他人の人生を支配しようする行為は、悪徳に分類すべき傲慢である。

 自殺が禁忌とされ所以は、社会にとって一体の家畜が減るのが不都合であるためだ。社会ダーウィニズムの弊害である。

 死にたがっている人間を生かすことは、生きたがっている人間を殺すことと同じくらい残虐非道な行いである。他人の自殺を阻止せんとする人間は、首切役人と同じくらいの覚悟を持たねばならぬ。

 生きているだけで偉い、と言われるが、自殺はさらに偉大である。生きることは惰性によって為されるが、自殺は努力によって達成されるからである。望まない生は死への敗北だが、望まれた死は生への勝利宣言である。

 

ドーミエ《最後の水浴!》、1840年

蚤が主人公の珍書『蚤の自叙伝』を読んで

『蚤の自叙伝』はいわくつきの珍書だ。一匹の蚤を視点に、上流階級の人間における好色的な生活模様を皮肉交じりに語るイギリスの小説である。1976年にポルノ映画化もされている。富士見ロマン文庫の翻訳が古書店に出回るのを虎視眈々と待っていたのだが、一向に適正価格で見つかることがなかったので、痺れを切らして国立国会図書館まではるばる訪れた。

 翻訳は複数あるらしい。梅原北明だとか酒井潔だとかとともに発禁本などを出した、昭和初期におけるエログロナンセンス文化の立役者である佐藤紅霞が、はじめに『蚤十夜物語』として1927年から1928年にかけ雑誌で翻訳を連載する。後に『蚤の自叙傳』として完訳。ほか、『私は蚤である』(発禁図書海外版)、『蚤の浮かれ噺』(東京書院)などがある。

 江藤潔訳の富士見ロマン文庫版は、『吾輩は蚤である』と題されている。『蚤の浮かれ噺』とこれは、新字体で読みやすい。『蚤の浮かれ噺』のほうは、です・ます調の敬体で綴られていて、こちらは比較的入手が簡単である。ただ、『蚤の浮かれ噺』はパリで出版されたフランス語のLes Souvenirs, D’une puce.を底本としているのに対し、『吾輩は蚤である』のほうは、英語で書かれたAutography of a Fleaの全訳であるとの事だ。尤も大まかな筋書は変わらない。自分は本書をイギリス物として把握していたのだが、1890年発のフランス語版を起源とする説もあったらしい。現在ではロンドンの弁護士による作であると判明しているとの事。

 富士見ロマン文庫版の『吾輩は蚤である』の、落語を思わせる軽妙な語り口調が気に入ったので、当初の予定どおりこれを手に取ることとした。

『吾輩は蚤である』は、次のような一節から始まる。匿名作品ゆえにインターネット上でパブリックドメインとして英文が公開されていたので、それも付しておく。

「吾輩は蚤である。吾輩は生れた、とにかく生れた──ところがいつ、どこで、どんなぐあいでとなると、とんと見当もつかない。なにはともあれ、読者諸賢の信をまつほかなかろう。ただ申せることは、吾輩出生の事実も、これより述べる回想録の真実性も、ともに厳然たるものであることである。けれども、あるいは詮索好きの向きにおかれては、吾輩が日々の歩行において──おっと失礼、ジャンプにおいてと申すべきであったか──つれづれに接するすばらしき事実の全貌を、いかにしてこうも赤裸々に書きとどめる知能と観察力を身につけたか、お疑い召されるかも知れない。そういう方にはただこう申しておこう。自然界には人間の科学の進歩などではまだまだ解明されない、俗人の想像をはるかに超えた英知が存在するのであると。」

(Born I was—but how, when, or where I cannot say; so I must leave the reader to accept the assertion " per se, " and believe it if he will. One thing is equally certain, the fact of my birth is not one atom less veracious than the reality of these memoirs, and if the intelligent student of, these pages wonders how it came to pass that one in my walk—or perhaps, I should have said jump—in life, became possessed of the learning, observation and power of commit-ting to memory the whole of the wonderful facts and disclosures I am about to relate. I can only remind him that there are intelligences, little suspected by the vulgar, and laws in nature, the very existence of which have not yet been detected by the advanced among the scientific world.)

 といったような次第である。

 題名が『吾輩は蚤である』というふうに訳されているのは、漱石の『吾輩は猫である』が、この『蚤の自叙伝』に想を得て書かれたものである、という説のためである。漱石の事を自分はよく知らないが、これを読んだ決定的証拠はなさそうである。けれども非人間の視点による人間社会の批判だとか、語り手が自らの身分を述べる書出(冒頭の「吾輩は蚤である。」は翻訳で書き足された一文とはいえ)だとか、形式的共通性が読みとられよう。

 さて、『蚤の自叙伝』の筋書は、以下の如くである。蚤が、自らが知性と観察眼を具えた特殊な蚤である旨を語った後、回想を始める。はじめに蚤は教会にいた14歳ばかりの美少女ベーラの脚にとびつき血を吸う。ベーラは恋人である若者のもとに行って、セックスをし始める。そこに神父が乱入し、ベーラを破廉恥な女、罪深き娘、サタンに身を捧げし子と罵倒する。慈悲を求めるベーラを聖具保管室に呼出し、マリヤのお告げであるとか言って、セックスをするのが宗教的使命と説く。そして神父とベーラはセックスを始める。途中、その模様を覗いていた神父2人が参入しはじめる。後日、神父が伯父に告口し、この饗宴に伯父やベーラの友人の少女ジュリアを巻き込むこととなる。

 という次第で、いかにも下世話な小説であるが、蚤のユーモアあふれる語り口がおもしろい作品だった。

 この作品が発表された時期のヴィクトリア朝英国は、技術の向上により大量生産が可能となったり識字率が向上したりといったことから、一部の上流階級以外の人間にも文学が読まれるようになって、より通俗的な作品が出始める。その一環として、多くは匿名だがエロティカが発表される。『好色なトルコ人』だとか雑誌『パール』だとか、スウィンバーン作との説が囁かれる『フロッシー』だとかだ。またヴィクトリア朝は表面上、経済的繁栄と美徳に彩られた時代であるが、その暗部にある闇だとか欺瞞だとかを扱うような文学がしばしばある。サッカレーなどが好例であろうか。この『蚤の自叙伝』についても、その例に漏れない。

 

The Autobiography of a Flea 原文

https://en.wikisource.org/wiki/The_Autobiography_of_a_Flea

電子書籍のこと

 電子書籍は現代における最も偉大な発明の一つであることに、近ごろ気がついた。書籍内の検索機能。指定した範囲に関するインターネットでの検索機能。覚書の追加。ハイライトの追加。劣化したり破損したりすることがない。等々、等々。とりわけ外国語の書籍などは単語検索によく助けられている。

 ところが自分は、電子書籍で読もうとすると途中ですぐに飽きてしまう。紙書籍を手に取って頁を捲るような身体性をともなっていなければ、虚無感めいたものを感じてしまうのかも知れない。

 なので基本的に、電子書籍を購入するのは、外国語の書籍と、自分にとって聖典めいた位置づけの書を、紙書籍に加えて買う、といった場合に限られる。電子書籍の形式で読み進めるのは苦手だが、自分の好きな一節を反芻するにおいては実に好ましい。ユイスマンスの『さかしま』だとか、サドの作品群は、浩瀚な単行本と小さな文庫本に加えて電子書籍をもっている。以前は常に愛読書としてサドの『悪徳の栄え』を携帯していた時期もあったのだが、いまは外だとスマートフォンだとかノートパソコンだとかで時折開くにとどめている。お陰で変なリスクが軽減されている。