人形を愛する或る男の独り言

 僕は人形を愛している。純粋に、人間よりも人形のほうがよほど美しいからだ。純粋に至高の美を探求するというような、審美的な価値観を抱いていれば、そうなるのが当然であろうと思う。

 人間の始まりについて、「糞便汚濁のなかより生まる」というように聖アウグスチヌスが説いているのは周知のとおり。人間とは本質的に、動物的で汚らわしいものであるのだよね。で、その不潔性の根源ってのは、自然の産物であることにある。自然から生れたものというのは、本性として欲求の下僕であって野蛮なものだ。野生動物同然にね。猥雑で体毛が茂っていて、かしましくて品性下劣で醜いのさ。

 他方、人形は清潔かつ神聖で高貴だ。人工の理性と計算に基づく精緻で洗練された外観を具えている。実に美しいものだね。いかなる自然なものも、人工において正確無比に再現されるどころか、もはや大概の幻想が人工の手により具現される時代になって久しい。既に自然が人工に如かないことは、異論の余地があるまいと思うね。

 今どきの女は、女らしさを失っている。男の領域に近づきつつあるのだよね。女らしさは気高さとも換言できる。そもそも女らしさってのは何かというと、ある種のウェヌス性ってのかな。より快楽や美的なものを求める傾向というべきものだ。この手の傾向は、悪徳だとか頽廃だとかの徴として、文明社会においては忌むべきものとして排除される。ゆえに女らしさの喪失ってのは、現代社会の宿命ではあるのだよね。

 この点、人形は女の上位互換と言えよう。女における絶対的条件であるところのウェヌス的な娼婦性と処女性を兼ね備えている。人形は、僕の与える愛の一切を受入れるし、そして尚且つ、僕以外の男の手が介在する余地がない。

 現代における女の有益性と言えば、種を保存する装置か、性的快楽を提供する道具か、男を良く見せる装飾品かくらいのものだね。僕にとって、こうした本能や虚栄心のためにおこなわれる行為は厭わしい。こうした作為を排してこその愛であろうと僕は思うね。