教養主義ならぬ「教育主義」に関する独り言

 近ごろ、に限った話なのかは知らないけど、僕の周囲で、学校の教科書に載っている事柄を、自分が一大知識人であるかのように、したり顔をして引用する人々を度々見かける。シューベルトの魔王だとか、ヘッセの少年の日の思い出の一節だとか、まあ、挙げればきりがないのだけど、その類のもの。で、伝わらなければ教育の敗北と嘲たりする。

 この手合を目にするたびに、顔面を殴打したくなるね。だいたい僕は、教育ってのが大嫌いだ。この上なく厭わしく思う。教育というのは、社会に有益な下僕を育成する工程なのだからね。それに教育にたずさわる教員は得てして、知性も品性も欠いた野蛮人であるので、彼らがもたらす最大の教訓はせいぜい、教育の腐敗、無益さ、自発的学習の尊さくらいじゃないか。そんな教育をありがたがっている低能児共も、同様に嫌悪の対象だ。彼ら低能児どもの、教育を重んじている、という行為そのものが、自発的に学ぶ意思をもたざる下僕であることを暴露してるだろう。それと優等生どもが一生懸命に気を払っている学業成績なんてのは、そいつが家畜として上等である指標を示す値札に過ぎないのだよね。原始的競争主義の奴隷根性に毒された全く唾棄すべき輩だよ。

 だいたい、脳髄に具わっている知的な引出がことごとく、教育だとか受身による産物であるというのは、それ以外にカルティベイトされる機会が自分にはまるでございませんでした、正真正銘の無教養者であります、って告白してるようなものじゃないか。恥ずべき事だろう。って訳で、かような教育主義的仕草ってのは、知的ぶった高慢さが鼻につく、ってだけじゃなく、教養どころか反対に無教養の標識でさえあり得るので、やはり関わり合いになりたくないね。